昭和四十九年四月十七日 朝の御理解


X御理解第五十九節 「習うたことを忘れて、もどしても、師匠がどれだけ得をしたということはない。覚えておって出世をし、あの人のおかげでこれだけ出世したと言えば、それで師匠も喜ぶ。おかげを落としては、神は喜ばぬ。おかげを受けてくれれば、神も喜び、金光大神も喜び、氏子も喜びじゃ」


 昨日、あのように盛大な春の御大祭が奉仕されました。本当に、日頃頂いております信心を、ああいう形で現わしておる訳でございますけれども、日頃頂いておる教えというものが、昨日の御大祭ほど、真になったとはっきり感じさせて頂いたお祭は初めてでした。もう日々が、または度々がそうなんですけれども、ここんとこ取り分けそれを感じさせて頂いた。と言うのは、まあ言えば色々な人間心を使うならば、条件の悪い中に、御大祭が仕えられたんですけれども、普通から言えばそれですけれども、結果・答というものは、却っておかげを頂いておった。
 例えて、まあ御大祭が結局たくさんの人が参って、たくさんのお供えをさして頂いた。と言うようなのが、形に表れる訳ですけれども、お供えも、今度程充実したお供えはございませんでした。御参拝も、今までよりもむしろ多かった。例えば交通事情、あの西鉄のストといったようなことがありましたけれども、却って、参拝者が多かった。
 昨夜、お初穂の整理をされておったが、いつもよりか三割方、いつもの御大祭よりも多かった。もうすべてが、もう本当にキチッと切って接いだように、お働き。お弁当も、その前日に、お弁当の時に、西鉄のストのことがありますから、お弁当を数を減らして作らして頂くというお届けがあった。ところが私が、「そげなこといらんばい。当たり前に作らせて頂きなさい」と言うておりましたが、弁当が十二、三余っただけであった。言うならば、カッチリしたことであった。今日、今朝から子供達に、外回りのことやら、駐車場のことやら、履物預かりのことやらを聞かせて頂きましたが、本当に、万事万端に御都合お繰り合わせを頂いたことを、それぞれに言っております。
 私がいつも申しますように、例えば商売をさしてもらう。まあ田舎辺りで商売をすると、農繁期の時にはお商売がない。農閑期になるとお商売がある。雨が降るからお客さんが少ない。お天気の良い日は多い。第一そういう観念が、神様をもう疑うてかかっとると同じことなんです。問題はこちらの力なんです。毎日お客さんが百人なら百人のお客さんがあって、百万なら百万の売り上げがあるならば、いつもがそうなからなければ嘘だというのが、私の教えの根本ですかね。言うなら、「神を杖につけば楽じゃ」と言う。神様の絶対性というもの、人間心というものを使わずに、神情を以てなされて行くならば、そういうことになるはずはないのだと、問題はこちらが、百斤の力、持てれる力が出来れば、百斤のものは必ず持てれるんだ。それは降っても照っても関わりはないことだと、けども今日は天気が悪い。今日はバスがストじゃから。もうそのおごりがね、成程弁当を半分にしなきゃならんといった結果になってくるのです。ところがです。そういう信心が、昨日、子供といた時に話していたんです。昨日若先生の御神誡奉読の後に挨拶をした。もう、あれがあのまま昨日のおかげであったとこう言うのです。前の前夜祭の時に、お天気もどんよりとした、勿論夜中から雨が降りだした。けれども、いよいよ夜が明けますと、カラッと晴れた、それこそお祭日和であった。成程バスを利用してくるといったような人達は、参りがなかったけれども、今度は自家用車を、乗用車でお参りをするという人が、もうとにかく駐車場が一杯だったと。
 今年はどうした加減であったか、言うならば、大祭の看板であるところの、垂れ幕も掛けていなかった。だから、言うならば、垂れ幕を見て、例えば近所の人達なんかは、「ああ合楽の金光様の大祭だからいっちょ参ろか」と言ったような人達もあったけれども、そういう人達のそれも、垂れ幕もしてなかった。第一、案内状がまあだ大祭の当日に着いていなかった。だから本当言うなら、お参りが少なくならないかん、淋しくならにゃならんのが、却って反対におかげを頂いておったというのは、私の信心がです。前夜祭にも申しましたように、「日頃信心をさせて頂いておる、その自分の信心を試すようなものだ。試金石だ明日の御大祭は」というようなお話を聞いて頂いたでしょう皆さん。いろんな悪条件の中に、明日の御大祭は奉仕されるんですけれども、問題は信ずる心。
 今日の御理解で言うと、「習うたことを覚えておく」ということは、習うたことを自分のものにしておくということなんです。本当に、普通人間心を使えば、いろんな悪条件の中に、御大祭が奉仕されましたけれども、「いつもよりも賑やかに、いつもよりも有難い御大祭を頂くことが出来まして有難うございました」と言えばです。神も喜び、金光大神も喜び、なら、信者一同、私を初め信者一同をもの喜びということになるでしょう。
 日頃習うておっても、例えば、「神を杖につけば楽じゃ」と言うておっても、神を杖についてないから楽ではない。「観念を捨てろ」と言われておっても、観念を捨て切らずに、やはり人間心を使うて心配をして、あの手この手と人間心で手を打つようなことをするから、却っておかげにならんとよく教えて頂きよってもです。それを覚えておるだけではない。それが自分のものになっておらなければ、そういうことになってこない。そういう意味で、昨日の御大祭は、日頃私が皆さんに聞いてもらっておる。言うならば、教導させて頂いておる教えておることをです。そうじゃろうがと、間違いがなかろうがと、皆さんに念を押すような御大祭だったと私は思うんです。成程親先生がおっしゃる通りだということ。
 天候のせいにしたり、人のせいにしたり、あれがああだから、こうだからということは絶対ないです。問題は自分自身の信心が、いわゆる確固たるものになってさえ行けば良いのです。だから、人じゃない、自分だ。結局自分というものを、見ること見ることということになるのです。自分というものを、その都度にいよいよ知ることにならなければいけないのです。
 御大祭を終わって控えに下がらせて頂いて、お茶を頂いておりましたら、竹内先生が見えられて、今度の二回目の市長、今度は無投票当選であった。自分が四年前に立たせて頂いた時には、それこそ乱立であった。あらゆる、共産党までが立った。いわゆる、本当に市長戦であった。戦いであった。ところが四年後、それは、あれも出るげな、こちらも出るげな、あの人も立たっしゃるげなということであったけれども、いよいよ間近になってきたら、一人一人が出ませんということになってきた。それは、もう竹内市長の前には、まあしっぽを巻くといったような意味ではなくてです。何とはなしにです。お話を頂けば頂く程、言うならば、自分ではそういうことはおっしゃいません、けれどもお話の後先から考えさせてもらうのにです。結局、竹内先生の人徳というか、人柄というか、勿論そこには、大変色々とおかげも受けております。
 社会党はもう出ることになっとったけれども、出らなくなってきた。それで出る人が、竹内先生に言われることは、「今度のことばかりは、もう成り行きがそうさせた」と言わっしゃったそうです。「出るはずじゃったけども、成り行きが出られんようになった」とこう言われた。「まるで信心のある者のようなことを言いました」と言うて、昨日まあそのことを話しておられます。
 四年前に親先生から、まあだ時期尚早だと普通から言うたら、どんなに考えてもまあだ早い。けれども、御神意を伺うたら、『いや今度は是非出るように』ということであった。そこで決心された。なら、どういう心掛けで、こういう心掛けでおかげを頂けということであった。それを守って四年間、もうそれこそ、「今度の市長はついとる」と市民の者が言うくらいに、もういろんな意味で素晴らしい発展を伊万里市の上に遂げて、伊万里市の人口が増えて行くというのは、もうそれこそ、今までかつてないことだと、だんだん、だんだん、少なくなって行っとった。しかも、あのような素晴らしい市庁舎が出来た。町には大きな工場とか会社が次々とやってくるようなおかげになった。市内にも大きなデパートが進出してきた。何とはなしに伊万里市全体が活気が出来てきた。だから、「伊万里の市長はついとる」もう、もう伊万里市でいろんな会合がある時なんか、伊万里市で全部の会合がある時なんかは、もう「伊万里の会合は、雨乞いの会合だ」と言われるくらいお湿りが何時もあった。ところが、伊万里市長が竹内市長になってから、おかげでもう、それこそ降りよっても止むというようなおかげを頂いた。四年間。
 それで「今度の市長はついとる」と言うておった人も、これはついておるだけでは済まされないものを感じてきた。言うならば、和賀心時代を、言うならば伊万里市の上に、伊万里市長の言うなら心がです。信念がです。伊万里市の上にこのように現われてきた。もう徹頭徹尾親先生のおかげで、今日の四年間の御用を頂いて、これだけの業績・実績を挙げることが出来たという、もうそれこそ、本当に心からのお礼のお届けがありました。それこそ師匠の言うた通りを四年間守らせて頂いた。また判らない時は、その都度都度に御神意を頂いて、市政の上に、もう毎日毎日、伊万里市市政の上に御取次を頂いての御用であった。そしておかげを頂いて、一期を終わることが出来た。そして、第二期も出るようにという御神意を頂いて、出る決心を決めさせて頂いたら、今まで乱立であったその一人一人が、無投票当選というようなおかげになって来た。戦うということではない。結局治めて行くということ。和賀心で言うならば、治まるということ。どうでしょうか。神も喜び、神様も喜んで下さっておるに違いありません。金光大神も喜んでおって下さるに違いありません。「親先生のおかげでこう」と言やあ、私が喜ばんはずがない。そこに、なら、伊万里の市長竹内先生も喜ばれる。伊万里市民も喜ぶという、八方喜びのおかげが頂かれる。それであって初めて、信心を頂いておる値打ちがあるんだということを、この五十九節には教えてあると思うのです。
 だから、頂いたことをです。「師匠が教えたことを覚えておって」ということは、それを行じて行ってということです。そこで、「親先生また御結界に色紙を持って参っております。それで、これからまた四年間御用させて頂くその真になる、どういう言うならば心情を以て、市政に当たらせて頂いたら良いか、御神意を頂いて頂きたいと思いますから、一筆書いて下さい」と言ってここへ持ってきてある。「何かお願いして書かせて頂きましょう」と言うておりましたから、今朝から神様にそのことをお願いさせて頂いた。そしたら、一番に頂くのがね、あの金光様の御詩である。今の金光様の。 [なすと言え、なし得る条件、恩恵の、なくばなし得ず、何一つとして]という、これを一番に頂いたのです。
 これから市政の上にどういうことをなすと言うても、そうそれこそ自然がバックであるというよりも、天地の働きと共にです。おかげをそこに受けなければ、なすと言うたって出来んのだということです。そんなら恩恵を受けなければならない。その恩恵を受けるためには、「神様どういう信心にならせて頂いたらよろしいでしょうか」ということをお願いさせて頂いたら、三代金光様のお言葉であるところの、『日に日にがさら』ということを頂いた。
 日々がさらです。とくにこの「が」、日々がというところに強調して頂いたんですけど、それはどういうことだったかと、「日々がさら」でなからなけりゃならない。「日々さら」ではない。「日々がさら」でなからなけりゃならない。「そんなら神様、そのさらな心というのは、どういう生き方にならせて頂いたら、さらの心が生まれましょうか」ということをお伺いさせて頂いたら、『日々が反省・改まり』と頂いた。
 成程、皆がおかげ頂きたいおかげ頂きたいと言う。なしたいと思う。ああもおかげ頂きたい。こうもおかげ頂きたいと思うけれども思う心が弥猛(やたけ)にはやっても、御恩恵を受けなければなし得ることが出来ないでしょう。[なすと言え、なし得る条件、恩恵の、なくばなし得ず、何一つとして]なのである。
 そこで、そういう恩恵を受けるためには、私共が日に日にさらな心を以て、神様へ向うて、さらの生き生きとした心でなからなければ、恩恵を下さってあって、恩恵の中にあっても、それをキャッチすることが出来ないのだ。枯れた心、有難くもなからなければ、勿体ない心も湧かないような心で、「神様どうぞお願いします」と言って、手を差し伸べておってもです。それは、枯れた木が天に枝を葉を差し伸べているようなものだから、伸ばしようがない。根が生き生きとしとる。枝葉がしこって行きよる。その上に尚また願うから、いよいよ伸びもすりゃ、花も咲きゃ、実も実るということなんです。生きとらなければ駄目だ。日に日にさらでなからなければ、そんなら、そのさらな心というものがです。頂けることのためにはどういう信心をさして頂いたなら良いか、どういう信心を身につけていったら良いか。
 言うならば、教祖様のお言葉であるところの、「これで済んだとは思いません」という精神だと思うです。日々が。一日を締め括らせて頂いてです。あれもお粗末であった。あそこもご無礼であったと、もうおかげを頂きたいという心に、止むに止まれないものがあるからです。やっぱり、「信心は日々の改まりが第一」おっしゃるのだから、その、改まるということ、いわゆる猛反省をさして頂いて、あんなことじゃいけなかった。明日は、あそこで失敗してはならんという、そこから生まれてくるのがさらの心なんです。改まったところだけは、言うならば、そこから新しいものが必ず出らんはずはないです。
 今日は、大祭の反省会があります。合楽の反省会はそういう意味で大変有難いと思うです。もう長年大祭も仕えてきたから、要領も覚えたし、段々判ったからこれで良いというのではない。やはり大祭のたんびんに反省会をする。そしてよりよい大祭を頂かして頂くことのための、色々な点をです。お互いに出し合うて、ならこの次はそこで失敗をしてはならない。更なるものが生まれてくるでしょうが。次の大祭には、今度のえらい行き届いたことがしてあるなと思ったんですけども、あそこに、この前の反省の記録がちゃんと貼ってありましたですね。あれは素晴らしいことですね。ああいうことに行き届いてなさっておられるのを見せて頂いて、成程と思うたです。前の大祭の時に反省したそれを、ずっとそのままに貼っちゃった。だから、ここでは失敗せんように一つ御用頂きましょうという意味なんです。更のものが生まれて来ないはずはない。そのさらの心でなからなければです。恩恵の中に浸っておっても、それをキャッチすることが出来ないというのです。
 だから、この三つのことをです。色紙に認めさせて頂いて、「竹内先生、今度の言うならば、市政の上に、あなたがこういう心掛けになって行かれるならばです。また、さらな心が新たな伊万里市の上に、繁栄のおかげを頂くことになるでしょう」と言おうと思うとります。それをまた、先生のことですから、行じられることでしょう。本当にこれからが楽しみ。いよいよ、和賀心時代を小さい分野ではあるけれども、伊万里市の上にそれを現わして行けれる。もう何と言う素晴らしいことであろうか。
 それこそ、師匠が教えたことを忘れて、おかげを落としておる人がいくらもある。それを守らずにおかげを頂ききらんでいる人がいくらもある。師匠が教えたことをよく覚えておって、自分のものにして、そしてかくおかげを頂いたと、例えば、昨日伊万里の竹内先生が、私のところへ見えて、いろいろと厚いお礼のお届けがございましたがです。私の喜びだけではない。神も喜び、金光大神も喜び、そして竹内先生自身も有難い。伊万里市民の者も喜ぶというような大きなおかげになって行くのです。私は目先を細くしてはいけないと思う。本当に神様に喜んで頂けれる、神も喜び、氏子も喜び、金光大神も喜んで頂けれるような信心とまた、おかげを現わして行かなければいけないと思うです。それには日頃、例えば頂いておる覚えておることをいよいよの時に、それを現わしていかなければいけない。
 今度の大祭は、それを私は如実に現わしたお祭であったというふうに思うのです。と言うて、これで良いということは決してありません。また、今日の反省会にはです。また、より改めて行かなければならないこと、より自分のものにして行かなければならない、行じて行かなければならないことなどがです。そういう話が出ることであろうと思いますけれども、ただ今申しますように、恩恵なくしてはです。ああもおかげ頂きたい。こうもおかげ頂きたいと思うても、出来ることじゃありません。それには「日々がさら」という信心を目指さなければならない。言うなら、そのさらな心が生まれてくるような信心はどういうところから生まれてくるかというと、もう日々が改まりであると、日々が、言わば、これで良かったであろうかと反省させてもらうところからです。これで良いとは思いませんということに必ずなるのだ。そして、その次にはです。これでいけなかったところが、例えば一分一厘づつでも、前進して行くことになるのである。そこに、私は、恩恵に浴することが出来る。その恩恵を以て、いよいよ神も喜び、氏子も喜び、金光大神も喜びというようなおかげに、なして行かなければならないということを思います。
 自分だけが喜びといったような、ケチなおかげではいけんです。竹内先生のお話を皆さん聞いて下さって、成程そういう生き方、在り方ならばです。今申しますような、もう、神様も金光大神様も、親先生も自分も、市民も喜べれる。いよいよ神様が、御恩恵を御恩恵たらしめて下さるおかげが受けられると思うですね。
どうぞ。